吾川村の歴史・文化 研究  −関連項目− 文化財を保持する者  (平成11年6月15日現在)

社家 岡林氏 (おかばやしし)
吾川村 岡林氏由来記


平安時代に発生し、建武の時代より系図に記された初代から四十二代目に至るまで、
およそ七百年以上神主家の世襲制を保つ(平成11年6月15日現在)。

また川井神社(現大崎八幡宮)を建立された初代宮司は信州の神官からの嫡流である事が系図に記され(江戸初期頃の系図現存)、岡林姓を名乗り始めたのは天文十年頃であるとされる。

文化財を保持する家系として、岡林家系図や史料を参考に、公表を許された略歴を記す(記 尾崎福正)

遠祖である初代神主は山城国の北斗妙見神社、熊野神社、三社十二社大権現の神主とされ
建武の時代、京の戦乱から逃れ、尊き皇族の身ながらご神体を捧持し奉り、吉野川を遡行して、本川村葛原に落着、ここに三大妙見社を建立、その後吾北村寺野、樅ノ木山へ分霊を勧請、社殿建立し、、熊野権現の御神託があり、安居郷宮ヶ平の山中に百二社権現を祀った、この熊野神社神主が高吾北の神主として岡林姓の祖となる。
嫡流の家が代々神主を世襲(代々の系図は明治四年の火災で焼失す

疫病除けの霊験があるとされる玄蕃信仰をし、玄蕃祭を縁日の毎年六月十五日に行う。
玄蕃祭に関しては資料が多く詳細は割愛するが、大崎八幡宮岡林宮司が代々頭役を務め、東西南北からそれぞれ肝いり役が四組(毎年変わる)出て、組事に御輿を出して町を行列が練り歩き、花台の元に集まり夜通し歌い踊る盛大な祭りを行う。
 この祭りは佐川領主の深尾氏でも広く行われ、あまりの盛況に財政に影響を与えるとして、四つの集落で1つの玄蕃祭を行う指示が出ていた事等が文献より確認され、現在でも佐川町の室原では横倉神社境内で行われている。

他にも玄蕃神楽、また多くの伝統芸能や古い習慣を伝承し、平安時代の聖観音立像や御神鏡、木神像等多くの文化財を保存してきた。

また大崎八幡宮二代目神主の三男が岡林姓を武田姓に復姓したと系図に残る事から、大祝は武田姓であった可能性がある。
十八代(大崎八幡宮初代)大祝 甲斐守源勝貞

天正十一年、17代目岡林神主の時、甲斐より戦乱を逃れ来た神主である大祝源勝貞に岡林神主娘を輿入れす

天正十四年六月十五日に大崎玄蕃(武田勝頼)によって建立された川井神社(現・大崎八幡宮)に甲斐より携えて来た品々を奉納された大祝(おおいわい)氏の大祝源勝貞が岡林甲斐守源勝貞と変名し初代宮司となる、ここに岡林氏と大祝氏の伝統の血を受け継いだ神主が発生す。
 さらに大崎玄蕃が川井神社の玄蕃頭を名乗り、大崎玄蕃頭源勝頼と変名し、玄蕃踊りや数々の等芸能を伝えた。
 川井神社建立の六月十五日を縁日として玄蕃祭は現在でも各地で行われている。
この川井神社は自然の要害である条件を整えた城で、仁淀川と土居川が合流し、紙の生産加工や物資の交易が盛んに行われ城下町の商業は栄えた。
 また岡林家は代々、この時期に発生した吾川村の名野川磐門神楽、池川町の池川神楽、安居神楽、本川神楽、玄蕃神楽等の神楽太夫であった事が史料などから分かる。

天正十四年七月には明神社を建立し諏訪明神を勧請。
(明治の廃仏毀釈の煽りで焼かれた。長宗我部地検帳から見ると、大崎八幡宮と真東に広がる神田の間に明神社の場所が確認できる)

慶長八年、熊野神社岡林神主家には男子が生まれず、大祝源勝貞の次男が岡林勝房として熊野神社の神主として入り、明治初期まで代々嫡男が宮司を継いできた。
大祝が岡林を名乗ったのはこの時が始まりとの説もある。

社家 安倍氏も、大崎玄蕃の長子信勝と池川氏の娘が婚姻して現在の吾川村桜に発生した氏族であると考えられている。

岡林甲斐守源勝貞より代々嫡流は大祝(おおいわい)の字を冠した(家紋は梶葉紋、現在では使用していない)
 岡林神主系図より大祝を冠した嫡流岡林家は以下のようになっている、尚大祝家としての経歴は分かっていないが、携えてきた品々や資金力の面でもそうとう高貴な氏族で、代々神主家であったと考えられる。
十九代(〃二代)・勝貞長子 岡林摂津守政勝

天正十四年(1586)生まれ。川井神社(現大崎八幡宮)が建立された年に生まれた。
大祝家、岡林家の社職の血を受け継ぐ最初の子として生まれ、弟の勝房は熊野神社の神主を継いでいる。三男、四男も神主である。

もとより岡林家は交易の盛んな立地を有効に使い栄えており、六男の彦左衛門(忠信)と七男の金益は、油屋、宿屋、質屋なども開業し、才谷屋岡林氏の祖と考えられている。
 才谷屋は初代が大濱八兵衛守之とあり大濱姓であるが、岡林氏も才谷屋を代々経営している。古い史料として黒金屋(司牡丹)弥三右衛門の母が才谷屋岡林氏から嫁いだとされる系図や伝承、(「下井新田奉願侯田畑匿敷地券之事」1知行地関係のみ記載)にも岡林家が代々才谷屋を経営していた記載など多く見られる。また赤穂の最名門岡林氏として栄えているのもこの時代からで、他国との交易も行っていた。現吾川村の土地の地検帳を見ると多くの土地の所有者が彦左衛門となっている。
二十代(〃三代)・政勝長子 岡林一学 勝清
二十一代(〃四代)・勝清長子 岡林助太夫清房
二十二代(〃五代)・清房長子 岡林丹後守重勝
二十三代(〃六代)・重勝長子 岡林右京太夫勝房

(妙力の持ち主で、様々な逸話が残されており、参道には岡林右京太夫を祀る社が設けられておる)
初代勝貞より勝房まで六代の間代々川井土居屋敷の東上の山根に住す
このとき家焼失し、相伝の書類悉く消失す中にも金岡の笑不動の軸あり奇妙を顕すと言い伝へり是より屋敷を下に移す

昔朝廷の右近の橘と左近の桜が枯れかかった時、岡林右京太夫に祈祷を命じて生き返っ事で、朝廷から頂いた巨勢の金岡筆の物で、庶民が持てる代物では無い。
巨勢の金岡については、清和源氏の系図に出てくる、有名な話に目無し虎の屏風図の話が有る、目を入れたら飛び出して人々を襲う話・・・・・
明治の時代に行商人に屏風屋へ修理にだしてから、帰らなかったと言い伝えられている
二十四代(〃七代)・勝房長子 岡林治部太夫勝利
二十五代(〃八代)・勝利長子 岡林治部太夫勝久
二十六代(〃九代)・勝久長子 岡林治部太夫
勝久の長子治部太夫より以下七代家祖の名を続けて治部太夫と称す
二十七代(〃十代)・治部太夫長子 岡林治部太夫
二十八代(〃十一代)・治部太夫長子 岡林治部太夫
二十九代(〃十二代)・治部太夫長子 岡林治部太夫
三十代(〃十三代)・治部太夫長子 岡林治部太夫
三十一代(〃十四代)・治部太夫長子 岡林治部太夫
三十二代(〃十五代)・治部太夫長子 岡林治部太夫
三十三代(〃十六代)・治部太夫長子 岡林治部太夫
三十四代(〃十七代)・岡林河内正勝光
三十五代(〃十八代)・岡林河内正正明
三十六代(〃十九代)・岡林河内正正明
三十七代(〃二十代)・岡林子槻勝貞
三十八代(〃二十一代)・岡林 祝

明治四年の神主の世襲制禁止令より、政府より派遣で来た神主として大崎八幡宮の宮司を務める事となる。
廃仏毀釈の煽りで関係寺院や社、また諏訪明神を焼失、古文書なども悉く失う、この時から大祝も冠していない。

この世襲制禁止を聞いた二十代目勝貞宮司は大崎八幡宮社殿を土居屋敷へ移し祭祀する。

国より派遣されてきた岡林祝宮司は、偶然にも岡林家の分家筋であり、
また更に「祝」という字が、代々大祝を冠する岡林家であった為、神託であると受け取り、二十一代目宮司として正式に玄蕃の伝(つたえ)などを相伝している。
しかし、嫡流ではないため、氏子達の協力を得て玄蕃祭などを行う事は出来なかった。
またこの時に相伝の書類や系図、またはご神体の紛失(写真は現存)など問題も起こる

写真は一部であるが、全体は現宮司照壽が所有する。武田家に関わる非常に重要な記述が多く見られる。
三十九代(〃二十二代)・勝貞の孫 岡林氏嫡流 岡林正神

世襲の禁止の抑止力も次第に弱まりつつある頃、嫡流の正神は文化伝承を残すため講社を結成し長生殿を建立。
神楽殿をも翌年建立し、伝統文化の存続の場として神楽や、手踊りの練習を行ってきた。

政教分離後に派遣宮司制に反対し、神社庁には属さずに世襲制を復活させた。
また高知県知事川村和嘉治氏の推薦を受けて昭和二十八年十月十一日文部省の宗教法人としての規則認証・許可を受ける、同年十一月二日登記、新しく国の認可包括宗教法人「長生教」(文部省雑宗第318号)として布教活動が全国に広まる。
(包括宗教法人の認可を文部科学省より受ける事が出来る宗教法人は希であり、現在全国に26団体のみ存在する)

大崎八幡宮を包括宗教法人長生教のもとで登録し、社殿を大崎八幡宮に還し、玄蕃祭が継続されることとなった。

この判断は、正式に玄蕃の伝(武田勝頼などの伝承含む)を嫡流の次の世代まで残すために岡林正神神主が下された英断であると評されている。
登記、管理した神社は全三十八社、布教所二十五カ所にも登る
四十代(〃二十三代)(二代目管長)・岡林正神長子 岡林正喜

祭祀のある時以外は百姓をし、伝統の保存などにも積極的に務める。
四十一代(〃二十四代)(三代目管長)・岡林正喜長子 岡林照壽

吾川村役場の職員となる。神主は副業であるとして、ごく数ヶ月の間のみ神主を務めた。
伝統の祭祀、また行事や玄蕃祭などでは世話役を務め、伝統の維持を行う。
この時代になり、岡林氏が保存管理してきた様々な品が文化財として次々に登録された
吾川村を例にとると
町指定有形民俗文化財(美術工芸品)として
流光山成福寺(現観音堂)の聖観音立像(平安時代のもの)
川井神社「正八幡宮御本尊御神体」(甲斐の武田八幡宮より携えられてきた武田始祖の御神像十二体)
川井神社「武田剣花菱家紋付手鏡」(姫が使っていたもの)
また他にも伝承に関わる多くの芸能が保存されている。
また玄蕃神楽は歴史が古く、最も古い面とされるものも残ってはいるが継承者がいない為、文化財登録されていない。
四十二代(〃二十五代)(四代目管長)・岡林照壽長子 岡林誠

平成二年六月七日に十六歳で大崎八幡宮宮司を受け継ぎ今年で九年目となり、肝いり役を経て玄蕃祭の頭や家系の総帥を務めている。二十五代目は玄蕃の伝を氏子に公表する権限を持つ。
重要民俗文化財の保持者として、神社ご神体などの管理や伝統文化の保存にあたる。
包括宗教法人長生教の四代目管長、本院の教会長や教師をも既に務めている。
あとがき

岡林家由来については、大崎八幡宮神主系図、岡林家系図、安居神楽伝承記、神社明細帳、玄蕃祭伝承記、皆山集など史料、岡林家に伝わる遺物・遺品などを参考とし私見を少し交えて述べました。研究不充分の上、誤りもあるかと思いますが、なお後世の訂正を俟つことに致します。

代々受け継がれてきた血脈が続いておる家系といのは滅多に存在しない、さらには平家の物語や土佐に落ち延びた武田勝頼の伝説の継承、他に例をみない玄蕃祭や祭祀を現在まで連綿と続けて来たことにまことに驚くべきことである。
 他地域とは隔絶した風土が日本全国の中でもとりわけ古い伝統文化を残して来たものと考えられる。

           
                                               記 平成11年6月15日 尾崎福正
         
    (平成18年FC2サーバーへ移す)尚、吾川村は合併して現在は仁淀川町
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